連載第4回目(全14回掲載予定)
戦後に作曲を始めた武満は通う高校の女性教諭に自作を見せたこともあった。が、武満が通った師は清瀬保二(1900-1981)である。武満の30歳年上の明治生まれの人だった。清瀬は九州大分の出身で、上京して山田耕筰に師事するも馴染めず、独学の道を歩んだ人。武満は演奏会で清瀬の《ヴァイオリン・ソナタ》を聴き感動を覚え、自ら清瀬の門を叩いた。
清瀬は武満の才能を認め、その個性を尊重するためにあえて指示を出さなかったという。武満が「ほぼ独学」と述べるのはそのためだ。ふたりはどのような会話をしていたのか。武満によると、清瀬は武満が書いた楽譜を丁寧に見た上で、あなたはこんな作曲家の作品が好きかもしれないと、楽譜を貸してくれたという。その中で武満の記憶に残っていたのは、カタルーニャ(スペイン)の作曲家フェデリコ・モンポウだった。残念ながら具体的にどの曲だったかはわかっていない。確かに武満の作品にある静けさと鐘のような響きはモンポウと似たところがある。それは荘厳で煌びやかで、かつ雄弁さもあるラフマニノフの前奏曲「鐘」とは対照的な世界観だ。

モンポウの楽譜を貸すとは、清瀬は武満が作品として表現をまとめる前から武満の音楽性の核を見抜いていたことになる。あるいは、武満の表現は最初から確たるものがあったというべきか――。
清瀬は武満が作曲するのにピアノを必要としていること、それを熱望していることを理解し案ずる優しい心の持ち主だったようだ。当時武満と親しかった福島和夫(作曲家のち日本音楽研究家)によると、清瀬が武満の現状を見かねて調律師を介して安川加壽子旧蔵のプレイエル社のアップライトを借りる手立てを整えてくれたそうだ。
武満も安川のピアノを借りたと記しているので、そのピアノについて安川の研究者である青柳いづみこ氏に尋ねたことがある。すぐに調べてくださった。けれども答えは意外だった。安川がプレイエル社のアップライトを所蔵していた記録はないという――。う~ん。真相は不明である。
【参考文献】
立花隆『武満徹 音楽創造への旅』文藝春秋社、2016年
『武満徹著作集 第1巻』新潮社、2000年
『第11回オマージュ瀧口修造展 実験工房と瀧口修造』佐谷画廊、1991年